Mag-log in「僕は死にたくなどない。けれど生きていけない! 華椰のいない場所でなど生きていけるものか!
もういやだ! こんなこと、真っ平だ! 愛がなんだというんだ? 和明。なぜ僕を縛ろうとする、僕を追い詰める? 愛していると、なぜその言葉は僕をがんじがらめにからめ取ろうとするんだ。 なぜだ! なぜ僕は華椰を愛した? 彼女を失うこと、それだけが僕を殺す。殺してしまう。 いやだ、和明。 僕は死にたくなどない! なのに、僕は死ななくてはいけないんだ! 愛という感情が胸に重過ぎて、僕は呼吸すらできなくなる! 彼女は、その愛持て僕を僕に殺させる!」 「翠、落ち着いて――」 「和明、僕はどうすればいい!? 華椰が行ってしまう! 早く追いかけて、彼女をつかまえないと――」死なせない!
私は必死になって、翠を壁に押しつけた。この手を放したら、翠はきっと行ってしまう。
遠くへ、華椰さんが連れ去ってしまう。私には、翠を救うことができなかった。 姉である華椰さんを愛していた翠。 弟である翠を愛していた華椰さん。 はたして翠が、庭の蔓薔薇の棘を抜いていたのだろうか? 崋椰さんのために。 異様なまでに手入れの行き届いた、膨大な数の薔薇だった。 そして、その身に群がる数千の棘。 摘み取るその手を傷つけないようにと、一体翠はどんな思いで削いでいたのだろうか……。 どんなささいなことで壊れるかも分からない、恐ろしい愛し方だった。 終わりの見えた、恐怖。 行き着く先のない、閉鎖された想い。 そんな翠の愛がどうして歪んだ愚かさだと言えるだろうか。なぜ私たちの信じる常識がすべてなのだと確信できる? それが正しいと、どうして……。 翌朝。 私は翠の元へは行かなかった。 そこにはもう翠はいないのだと、漠然と感じ取っていた。 あの日、あの嵐の夜に、翠の愛した華椰さんは逝ってしまった。 あのとき、その持てる精一杯の愛で翠を抱き締め、そして永遠にこの世から去っていったのだ。 翠はいない。 もう、きっと、どこにも。 華椰さんのいない世界など、翠には何の価値も見出せないものでしかないのだから、翠にとどまることなどできるわけがない。 のちに、親族のだれかの通報によって、駆けつけた警察の者があの屋敷で眠るように寄り添った2つの遺体を見付けたということを伝聞として聞いたけれど、私は、確認にも行かなかった。 あれは、翠ではない。 翠はいない。 そしてあの庭も、ただの藤の庭でしかなくなっている。 もうどこにも存在しないのだ。 あの空間は。 わずかに狂った、乱れた空間。 時間すらも押し黙る孤高さで、彼らのみが確立している世界だった。 まどろむ、かすかに酔いしれるがごとく、こことは違う世界……。 翠も華椰さんもいない今、だれ
「僕は死にたくなどない。けれど生きていけない! 華椰のいない場所でなど生きていけるものか! もういやだ! こんなこと、真っ平だ! 愛がなんだというんだ? 和明。なぜ僕を縛ろうとする、僕を追い詰める? 愛していると、なぜその言葉は僕をがんじがらめにからめ取ろうとするんだ。 なぜだ! なぜ僕は華椰を愛した? 彼女を失うこと、それだけが僕を殺す。殺してしまう。 いやだ、和明。 僕は死にたくなどない! なのに、僕は死ななくてはいけないんだ! 愛という感情が胸に重過ぎて、僕は呼吸すらできなくなる! 彼女は、その愛持て僕を僕に殺させる!」 「翠、落ち着いて――」 「和明、僕はどうすればいい!? 華椰が行ってしまう! 早く追いかけて、彼女をつかまえないと――」 死なせない! 私は必死になって、翠を壁に押しつけた。 この手を放したら、翠はきっと行ってしまう。 遠くへ、華椰さんが連れ去ってしまう。 それだけは許さない! 翠は、翠のために、翠を愛さなくてはいけないんだ。 私は翠を抑え込み、そして落ち着けと繰り返し叫んでいた。 恐れていた、結果。 翠は自らへの愛情が希薄過ぎる。 崋椰さんを愛しむ、『翠』はただそれだけの器でしかないと……一体いつから思い込んだ!? 自身への愛すらも華椰さんのものなのだと、そんな破滅的な想いをどうやって抱え続けてきたのか……。 私の手は翠の手をすべり、その細い体を抱き込んで、私自身の体全体で翠を抑えつけていた。 翠は抵抗する。 彼を束縛しているものが私であると気付いている様子はなく、ただひたすら自身に触れているすべてに拒否を発して、悲鳴のようなものを上げて華椰さんへの拒絶を口にする。 愛情により。 私は、必死に、翠に繰り返していた。 私が愛してやると。 私を愛すればいい。 きみが、愛することしかできないなら、そんな想いしか持てないなら、すべて私にぶつけ
そして恐るるべき日は6月上旬の日曜日。 その日は朝から激しい雷雨で、だれも外へ出かけようとしなかった。 窓を打ちつける雨音による苛立ちをまぎらわせるためだけにつけていたラジオは、それでも夕方の6時を過ぎてからの雷鳴には到底打ち勝つことができず。 私は、忌々しさでカーテンを引き締めた。 このときの私は、抑え切れない投げ遣りな思いにささくれ立っていた。 まるで余裕のない、そのくせモヤモヤとしたどうにもならない感覚で占められた胸にイライラが募り、何かを壊したくて、傷つけたくて、たまらない衝動に何度も襲われる。 そんな自分に腹が立ち、そのままカーテンへと突っ伏した私は、そんな感情の嵐をすべて吹き飛ばす驚きに自らの目すら疑ってしまった。 そこには、向かいの壁に背を預けて、2階の私の自室を見上げている人影があった。 ――翠! 私は直感的にそう思うと、窓を両手でたたいていた。 積もった汚れを洗い流すどころじゃない、地にたたきつけてなお深く減り込ませるほどに降る土砂降りの、その中を翠は私の元へやってきたのだ。 傘もささずに。 もう、忘れて久しい翠の姿だった。 そのくせすがりつきたいほどに懐かしさで胸を締め付ける、親友だった。「翠!!」 窓越しに名を呼ぶと、その声が聞こえたように人影が動き――目が合った気がした。 直後、階下へ飛ぶように駆け下りて、そのまま玄関から飛び出す。 はたしてそこにいたのはやはり翠だった。 初夏の雨にずぶ濡れに濡れて、震えている。 背を丸め、いつからそうしていたのか、血の気を失った肌色をして、おびえた目で自らを抱き締める姿はとてもただごとではない。 今にもその場に泣き崩れてしまいそうな、そんな風情だった。 こんな翠はかつて見たことがない。 翠は完全に自分というものを見失い、狼狽していた。 その頬を伝う幾筋もの流れは雨なのか、それとも涙なのか。判別がつかなかったが、私は、涙だと
「翠!?」「華椰を放ってはおけない。 学校へ通うことが、華椰と2人だけで暮らすことに対する叔父たちからの条件だったが……教室にいてもずっと華椰が心配で、もし僕のいない間に倒れていたらと思うと、教育というものがひどく憎く思えてくるんだ。教師も、校舎も、そこに通ううっとうしい者たちも。 華椰はまともに教育を受けたことがないんだ。あの病気では、大勢の人との生活は無理だから。 でも、何の支障もきたしてないだろう? 生きることに教育など必要としない。学校などわずらわしいだけだ。 これは華椰の頼みでもあったんだけれど……もう、限界だ」 そうして私に向け、その優美な面を寄せ、ささやいた。「僕はもうじき死ぬのさ。前に言ったとおりにね」 「翠……」 「ただ、和明。きみと会えなくなるのは、少し残念だね。華椰も僕の話すきみを気に入ってたみたいだし、とても残念なんだけれど。 ああでも和明、僕も、きみをわりと気に入っていたよ」 ささやく。 かすかに。 そしてゆっくりと近付いた面は、わずかに傾き。 柵ごしに、その唇を私によせた。 唇同士が触れ合う。 不思議と、気持ち悪いという思いはなかった。 ほんの瞬間的なものだったし(少なくとも私にはそう感じられる短さだった)、この幻想的な庭では、それが異常な出来事とは到底思えなかったのだ。 ここは翠の庭。 翠の思いのみの……それは間違いなく私の属している世界とは全く異質の、隔絶した空間であるのだ。 そして、ひどく距離を感じながらもその実薄幕のみで遮られているような、そんな不安定さで胸の詰まる、もろい空間。 私は、そんな場所があるという事実に恐怖しながらも、惹かれる心をどうしても否定し切れず、食い入るように翠を見つめていた。「じゃ、ね、和明。 華椰に僕の嘘だと言わなかったね。それだけは、礼を言うよ。 最後の最後で僕を失望させないでいてくれて、ありがとう」 翠は庭を真っ直に駆けて
なぜか翠が現われたとき、私はとてもひどい罪悪感を感じてしまった。 それまで何とも思われなかった今日の訪問が、それは決して、してはいけないことだったのだと今さらのように気付いた、いたたまれない思いで私は痛切に翠に対して心の中で必死に謝罪の思いを投げかけていた。 なぜなのかは分からない。 ただ、切羽詰まった苦しさで、翠に永遠に許してもらえない罪を犯してしまった気がしていて、ひたすら心の中で哀願していたのだ。 翠、怒るなと。 はたして翠は私を見つけて、これ以上はないというほどの敵意と殺意のこもった目で、ひとかけらの慈悲もなく見つめた。「……華椰。 もう入ったほうがよいよ。また発作を起こしたなら、今度こそ、僕は知らないよ。もうきみのためになど、何ひとつしてあげないからね」 再び女性に向き直った翠は、素っ気ない声でそんなことを口にしながらも、とてもいたわりを込めて、持ってきた上着を女性の肩にはおらせた。「ええ、翠良くってよ。そうしたならきっと私はあっさりと死んでしまうのでしょうから。 それもいいけれど、でも、やはり、1人はいやだものね。死ぬのも、残されるのも。 ええ、翠。もう入るわ」 ふざけたように言って、翠の頬をさらりとなでたあと、私に会釈をして、女性は扉のほうへ小走りに駆けた。「走らないで!」 翠がそう言う間にもその女性は扉をくぐり、屋敷の内へと姿を消してしまい……そうしてここには私と翠だけが残ったのだった。 とてもいやな空気だった。 棘を立てた翠。 苛立ち、忌々しげに私を見据える。 私に、自分自身で、己のした行為の愚かさを思い知れと。「あの……、翠。あのひと……きみの妹さん?」 私はそんな翠を恐れ、少しでもいつもの彼に戻そうと、口を開いた。「とてもきれいだね。発作とか言ってたけど、どこか悪いのかい?」 対し、翠は静かに私を怯えさせた。「なぜ、来た」
そこには、1人の女性がいた。 翠となんらかの関係があることは、庭にいる姿を見なくとも分かったことだ。 たとえ町ですれ違うだけだったとしても、たとえ気付かない者がいたとしても、翠をだれよりも近くで見ていた私なら分かる。 それほどの微妙さで、翠ととてもよく似た女性だった。 あいにくと女性のいたのは街角などではなく、翠の家の庭園でだったのだけれど。 その女性は、かすかに歌を口ずさみながら、蔓薔薇の垣根の前で舞っていた。 2分程度に咲いた、花も初めの藤の庭。 その色を補うように植えられたらしい蔓薔薇は満開している。そして、女性の手を痛めないようにという配慮からか、垣根の間を縫うように走っている小路は、絶妙に手入れが行き届いていた。 行き過ぎなのではないかと思えるくらいに。 家屋は西洋の造りで、屋敷と呼べるほどに大きく、巨圧感がした。 ただ、静謐という言葉ですらどうしてもごまかせない、寂しさのようなものがあるのがどこかひっかかる、そんな豪邸だった。「あなた」 女性は真鍮の柵越しに見惚れていた私に気付くと、無邪気にそう言って近付いてきた。「どうかしたの? この家に何かご用事?」 私はといえば、すっかり緊張していて、すぐに言葉を返せなかった。 今考えればあまりにも愚かで恥ずかしく。 だが実際、このときのこの女性の美しさは、翠にかなわないまでもあやしく、優艶であったのだ。 薄紅の夕焼けの空一面に広がる、軽く、結いまとめた髪。 すべての棘を取り払われている薔薇の花束を右手に、先まで摘んでいた薔薇の枝を左手に、その女性は私へと顔を寄せた。「……あの、僕、は……」 「ああ! あなた、翠惟のお友達ね? そうでしょう? 和明さん。そうね? ね、そうでなくては許さないわよ。この屋敷しかない、こんな路地の奥まで来ては。 あなたが和明さんなのね。翠惟のお友達の」 早口にそうまくし立てると、きゃらきゃらと子ど
当時、僕の中には翠に対して相反する2つの感情が背中合わせで対峙していた。 ひととして、だれもが望むもの。 並外れた美しさも、知性も、分別も、品位も、何もかもを持っていた翠。 それゆえに無関心という傲慢さで彼を取り巻く人々の心を乱し、操った翠。 目に見えない王錫をその手ににぎって生まれてきたに違いないと分かる、あきらかに私たちとは違う、選ばれた存在。超越者。 だがそんな翠にもやはり苦悩というものはあるのか。 それだけ恵まれた存在でありながら不満を持つなど、いささか尊大すぎやしないか
翠はそれからもたびたび欠席した。 まるで学校とは何かの合間に来る、暇つぶしをするための場所だとでも思っているような感じで、ひょいと現われては私たちの日常での歯車の噛み合いを狂わせる。 それが表面を華やかに見せる美のせいだけではないと気付いたのはいつのことか……。 翠はよく、突然思い立ったように私の席を顧みては、私に話しかけてきていた。 それがまた時と場合を見ず、窓際とはいえ最前列であるというのに一向に悪びれたふうでもない。 ところが私は元来小心な臆病者であるくせに妙なところで姑息で、いつも皆からはみ出してはいないかとびくびく気にするたちであったために、そんな、豪胆な翠のふてぶてし
翠は、あとで私にだけ、教えてくれた。 あるいは、吐露してくれた。 なぜ少女を拒絶したのか。 あんな、その場に無言のまま置き去りにするなどという、あまりにひどい拒絶を平然とすることができたのか。 翠は、私にのみ、言った。「もうたくさんだ、和明。 たしかにきみの言うとおり、彼女にとってあれは精一杯の強がりだったのかも知れない。 でもね、なぜそれに僕が付き合わないといけないのかい? 僕は、他人のために自分が左右されるなど、真っ平なのだよ。 僕は皆を気持ちよくさせるための象眼物などではないし、見知らぬだれかへの無私の奉仕者でもない。 好きだという言葉には、だれもが従順にならねば
私が彼とともにいたのは、ありあまるほどに存在する、単調さ、少しばかりの思考で容易に見通しのつく長さにおいては窒息さえ生み出しかねない私の生涯の中で、わずか数千分の一にも満たない日数でしかなかった。 それでいて彼は、だれひとりとして犯すことのできない禁足の位置というものは、たしかにだれの胸の中にも存在するのだということを私に気付かせ、そして私の中に空室となって眠っていたそれを探り出し、そこに入り込んだのだった。 それは、私の中ではとうに蜘蛛の巣が張り巡らされ、埃に薄汚れた、小さな片隅だった。 持ち主であるはずの私ですら慮ることの憚られる、辛うじて存在するだけ